桜が咲いて、桜が散って。

白い雲と青い空のコントラストが、一年前、星奏学院を異様なほど音楽一色に変えた記憶を思い出させる授業中。

―― ガタッッ!

二人の男子生徒が馬鹿広い学院の離れた教室で、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。














The Second Theme















「な、なんだ?質問か、土浦。」

何の前触れもなくいきなり立ち上がった土浦梁太郎に明らかに体格差で劣る中年教師が僅かにびびりながら声をかける。

暴れ出されたりでもするなら絶対かなわないとでも思ったのだろう。

しかし土浦の方は教師の言葉に初めてここが教室であることに気づいたかのように、呆然とした表情を驚きに変える。

「え、あ・・・・いや・・・・」

明らかな生返事。

教室中の誰もがこの突発事態の成り行きに目を見張る中で、土浦は逆に不思議そうに教室の面々を見返した。

「質問がないなら座って・・・・」

「先生。」

なんとか授業を再開しようと自らの職務を思い出した教師に対して、土浦はかぶせるようにその言葉を遮る。

そして酷く不思議そうに聞いた。

「・・・・聞こえないんですか?」

「?何が・・・・」

生徒の言う意味がわからず眉間に皺を寄せる教師につられたように土浦も眉間に皺を寄せ・・・・次の瞬間、走り出していた。

「お、おいっ!土浦!?何が聞こえないんだ!?おいーーー!」

叩きつけるように閉めた教室のドアの向こうから狼狽した教師の声が聞こえたが、それに答える余裕は土浦にはなかった。

(聞こえないだと?俺には『聞こえてる』のに。)

大きくはない、微かな細い糸のようだけれど。

しかしハッキリと聞こえていた。














エルガー 作品第12番 ―― 『愛の挨拶』















「!?」

「わっ!?」

T字形に曲がった廊下を直進しようとしていて、脇から出てきた人物に危うくぶつかりそうになる。

そして反射的にお互い身を引いたことで助かった相手を見て、土浦は驚き・・・・同時にどこかで『やっぱり』という気持ちを抱く。

「お前もかよ。月森。」

「ああ。」

運動部で常日頃走り込んでいる土浦と違い微かに息が上がっている月森蓮はそれでもはっきりと頷いた。

確かに聞こえているのだろう、彼にも。

細い細い、その旋律が。

だから余計なことは何も言わずに土浦はT字の廊下の先に視線をやった。

そのどんずまりには上の階への階段。

その先には。

「屋上、だな。」

「おそらくは。」

「行くんだろ?」

「当たり前だ。」

今も耳に届く音色の主が聞いたなら呆れそうな程、端的な会話で二人は視線を交わす。

そして月森が彼にしては珍しく口元に笑みを掃いて言った。

「可能性があるなら」

今、この音が僅かでも耳に届いているから。

「諦める気はない。」

「同感だぜ。」

二人は同時にスタートを切った。















『ヴァイオリン・ロマンス専用の楽譜なんだって。』

―― 苦笑しながら日野香穂子が土浦と月森に1枚の楽譜を見せたのは、コンクールが終わってしばらくたってからの事だった。

リリにもらったんだともう見えなくなってしまった友人を懐かしむように言う香穂子から楽譜を受け取って、変な感じがしながらも二人で覗き込んだ。

新しいような古いような紙に印された旋律は。

『エルガーの『愛の挨拶』か。』

『なるほど。あんなファンタジーな存在だけあってファータって奴はロマンチストだな。』

『そうなの?』

コンクールに完全な初心者で参加するという偉業を成し遂げた香穂子はそれでも基本的な音楽雑学には疎い。

その点において逆をいっている月森は楽譜を返しながら説明してやる。

『この楽曲はエルガーが妻となるキャロラインのために書いた曲だ。』

『へええ〜、なかなか格好いい事するんだ。』

素直に関心する香穂子を見ながら土浦は一瞬、口にしかけた言葉を躊躇った。

それは月森も同じだったようで、香穂子の頭越しに二人の視線が交差する。

結局、耐えられなくなって先にそれを口にしたのは月森よりはいくらか器用な土浦だった。

『それで・・・・お前、弾いたのか?』

『ん?』

『ヴァイオリン・ロマンス専用楽譜、なんだろ?』

この楽曲を使って誰かに想いを伝えたのか、と。

その音色を聞いた覚えのない自分ではない誰かに。

心中、酷く苦い物を飲み下したような気分であることは間違いないのに、素知らぬ顔で無表情をつくる・・・・月森も土浦も自分を姿見に映しているような気分で唇を噛む。

そんな二人の様子には気づかずに、香穂子は何とも言えない微妙な表情をした。

『あ〜・・・・弾かなかった。』

『なんで?』

思わず月持ちが聞き返してしまった気持ちが土浦にもわかった。

香穂子がおそらくこの楽曲を使って想いを伝えようとした相手は、香穂子の事を想っている事を知っているから。

『その人』だけを見ていた香穂子。

認めたくはなかったが、彼女を見つめるほど痛感させられた彼女の想い。

『だってふられちゃったもん。』

『『え?』』

『・・・・これ以上は踏み込んじゃ駄目だって。お互い辛い想いしかきっと出来ないからって。だから・・・・』

きっと辛い想いを嫌と言うほどに違いないのに、香穂子はからりと笑って言った。

『だから、見つめてるだけでいいやって思って。』

柄じゃないって言ったら殴るからね、と茶化す香穂子から月森も土浦も視線を外した。

―― 香穂子の心が『その人』にしかない事を突きつけられたから。















『だから卒業しちゃうまでは思いっきり見つめてやるんだ〜』

のほほんっと香穂子が言って、実際実行していた『その人』は丸一月前に無事に星奏学院に別れを告げていった。

その日から、香穂子の視線が所在なさげになった事に月森も土浦も気づいていた。

気づいていたが、どうすることも出来なかった。

あの楽譜を見せられた時のように、例え目の前から本人が居なくなっても『その人』が香穂子の心から消えることがないのを目の当たりにしたくなかったのかもしれない。

ただ散っていく桜を見つめ、ヴァイオリンを見つめ・・・・自分たちを見つめない彼女を、見つめていただけ。

それなのに、何故 ―― あの曲が耳に届くのか。

まるで、一年遅れのヴァイオリンロマンスのように。

耳の底から聞こえてきていたような音色は、屋上への階段を駆け上がる頃になれば実態を持った音になって耳に飛び込んでくる。

優しい旋律。

甘い旋律。

屋上のドアのノブに手をかけたのは、ほんの少し土浦が先。

―― バンッッッ!

屋上の陽の光の中に転がり込んだのは、ほんの少し月森が先。

「ふえっ!?」

心底驚いた声と共に音がばっさり途切れた。

「「香穂!」」

同時に名前を呼ばれて、ヴァイオリンを持ったままの香穂子はこれ以上ないぐらい目を見開く。

「は?え?月森君?土浦君???なんでこんな所にいるの??授業中でしょ?」

自分も同じ立場のくせに、当たり前の事を聞いてくる香穂子に月森も土浦も苦笑してしまった。

そして・・・・後になって香穂子に鏡に映したみたいだったと言われるほどそっくりな動作で香穂子のヴァイオリンを指さして言った。

「「聞こえたから」」

「聞こえたって・・・・ええええ!?な、なんで?そんなに音、響いてたの!?」

彼女が想像したのは授業中の教室にヴァイオリンの音が聞こえてきた図だったのだろう。

真っ赤になって頭を抱える香穂子の頭をぽすぽすっと撫でて土浦は宥めてやる。

「大丈夫だ。俺たちにしか聞こえてないから。」

・・・・実はさりげなく重要な事を言っているはずなのだが、それに気が付かなかった香穂子はすがるような目で二人を見上げる。

「ホントに?大丈夫だった?」

「ああ。ここから音楽科の教室は近いが、そこでも俺以外には聞こえていなかったようだった。」

やっぱり重要な事を言っているのに、香穂子は明らかにほっとして息を吐く。

「ああ、よかった〜。学校中に響き渡ってたらどうしようかと思っちゃった。」

そう言ってやっとヴァイオリンをケースの上に下ろした香穂子の動作を追って、そのケースに立てかけてある譜面を土浦はそっと抜いた。

いつか見た、『愛の挨拶』の楽譜だった。

「なあ、香穂。」

「ん〜?」

「なんで・・・・今頃、これを弾いてんだ?」

今にも口から飛び出しそうなほど聞きたかったことを言い出したのが今回も土浦で、月森は少し嫉妬する。

「ん〜・・・・急にね、弾きたくなったの。」

「どうして?」

彼女の言葉の先を恐れず切り返したのが今回も月森で、土浦は少し悔しくなった。

そんな二人の心中は知るよしもなく、香穂子はヴァイオリンから離れて屋上のフェンスに近づく。

そこからは星奏学院の施設の大半が見渡せるが、今は授業中で人影はない。

なんとなく彼女の右と左に立った二人に、香穂子は視線の向きを変えずに言った。
















「吹っ切れたかなって、思ったから。」














いつか聞いた屈託のない声と同じようで違う言葉だった。

同時に二人と視線を合わせるために一歩フェンスから離れて香穂子は二人を見つめる。

「あの人が卒業して、桜が散って・・・・さっき休み時間に空を見上げたらこの天気でしょ?
ああ、去年はこの空の下でコンクールしてたなあって思ったら自然に、そう、すごく自然に楽しかったなあって思ってさ。
そう思ったら、なんだか急にヴァイオリンであの曲を弾きたくなっちゃって授業さぼってここに来ちゃった。」

少しだけ照れくさそうに話す香穂子の表情に曇りはなく、彼女の言葉が何より本心だとわかる。

「・・・・よかった、と言うべきなのか。」

「よかったよ。大事な恋を、大事な恋の想い出に出来たんだし。それってすごいことだと思わない?」

話を振られて土浦は頷いた。

恋を笑顔で終わらせることはものすごく難しくて、すごい事だと知っているから。

そのあたりぴんと来なかった月森の憮然とした表情も妙に可笑しかった。

「だからさ、第一主題が終わるみたいに1つ恋が終わって、踏み出す第二主題の最初のメロディーに『愛の挨拶』なんて、素敵かなって自己満足で引き始めたんだけど。」

まさか二人が来るなんて思ってなかったよ、と言って香穂子は晴れやかに笑った。

その笑顔に、誰かの方を向いている笑顔ではない真っ直ぐ自分たちに向けられた笑顔に、月森と土浦は鼓動が大きく跳ねたのを自覚した。

((うわ・・・・))

思わず片手で口元を覆って顔を背ける。

(ああ)

(まったく)

嫌って程隣の男の姿がわかる。

きっと真っ赤になってるに違いない ―― 自分と同じように。

「月森君?土浦君?」

不思議そうに覗き込んでくる香穂子に二人同時に口を開いた。

「蓮」

「梁太郎」

「は??」

「「名前」」

寸分違わず被った声に、「今日は何でそんなに気があってるの???」と目を白黒させる香穂子。

そんな仕草さえ、新鮮で・・・・可愛く見えてしまって。

土浦はくしゃっと香穂子の頭を撫で、月森は香穂子の肩を手の甲で軽く叩いて笑った。

「俺たちにとっても始まったって事だ。」

―― 細く耳に届いた『愛の挨拶』は、可能性。

ファータがこっそり教えてくれた彼女の心を得られるチャンスの始まり。

「同感だ。君にとっての始まりで、俺たちにとっても始まりなんだ。」

彼女の音色が自分たちにも届くなら。

―― 諦めはしない。

だから、まず。

土浦と月森は訳がわからないという顔で首を捻っている香穂子ごしに視線をぶつけた。

「えーと、よくわかんないんだけど、・・・・蓮、君?梁太郎、君?」

初めて香穂子の声で紡がれる自分の名前に、くすぐったい想いをしつつ、きっと同じ事を感じているに違いない男を見て考える。














だから、まず何から始めよう ―― この男を出し抜くために。






















                                         〜 END 〜










― あとがき ―
もっとすっきり、さっぱり書く気まんまんだったのに、何故こんなに長い事に・・・・(- -;)
一応、土浦&月森→日野→誰か(<確実に3年sのどっちか)という構図なんですが、シリアスすぎず爽やかっぽいのを目指しました。
え、失敗してる?・・・・それは言わないで(泣)
私的には日野ちゃんの想い人は柚木先輩で、最終の方の恋愛イベントをロスった設定です(笑)
月森&日野&土浦というトリオはすごく好きで、自分でも書いてみたいとは目論んでいたんですが。
そのうちもっとシンプルなトリオの話が書いてみたいです。

タイトルの『The Second Theme』は『第二主題』。
曲の中で2番目に登場するメロディーの事です。